2018年、あるいは平成30年の終わりに

2018年、あるいは平成30年の終わりに

いよいよ2018年、元号でいうと平成30年が終わろうとしている。
自分的には疾風怒濤のうちに過ぎたこの2年を思うと、やけに穏やかな年末である。
2017の春から2018の夏にかけて5回の入院と4回の退院、3回の手術を経てと7月に実家の母が亡くなり、
様々な手続きや連絡や気遣い、付き添い等々細かな身の回りの介助が終わった。
自宅にて独り住まいをしていた母だが、幸いにして寝たきりにはならなかった。とはいえ、ボケ症状が進行するにつれ自発性や判断力が衰え、急激に露出し始めた身体内部の疾患もあり、状況は深刻化していった。
また、同時進行で息子の受験もあったので、私のほうも日程的、気持ち的、体力的にも難しいやりくりが続いていた。

そんな中ではあったが、2017〜2018年は
・My Book Planninng展(於:ランドリーグラフィックスギャラリー)、
・大学時代の恩師である日本画家・米谷清和先生の多摩美大からの退職記念の展示/米ちゃんありがとう展(於:多摩美美術館およびアートスペース羅針盤)、
・MJ展(於:ストライプハウススペース・ストライプハウスギャラリー)へ出品することができた。

2017年のMy Book Planninngに関しては5、6回の勉強会を経ての展示だった。母の容態によってはリタイヤも考慮せざるを得ない状況だったので、一連の予定を縫うような日程で母が入退院を繰り返していたことは奇跡のようだと感じる。

2018年開けてからは私が年末から実家に泊まり込み、年末年始を母と過ごしていたのだが、
正月も開けやらない4日に救急受診後すぐに入院。
それからかれこれ1年経ち、年末の今、母はこの世にいない_。
非常に感慨深いものがある。

母の死で、私は初めて臨終というものを目の当りした。
最後の入院は3ヵ月くらい続いたが、お終いの1ヵ月を切った頃になると、
医師からも「そろそろ最期かもしれない」という言葉が出て、前向きな性格の母自身も
自分の要望を全く発しなくなった。

そのあたりから私は病床の母をスマホのカメラに幾たびも記録するようになった。
それは臨終から死装束まで続いたのだけど、今、その画像を見返すことはできない。
実家のある駅さえも行きたくはない(行ってるけど)。
人の死はつらい。

おそらく母が亡くなる半月くらい前に、私は旬のサクランボを差し入れした。
枯れ枝のような母が赤ちゃんのようにピカピカのサクランボを1粒持ち、腕を持ち上げるようにして、しばらく魅入っていた。
ひと言「きれい」と言って。
生と死を投影したかのような光景はその後も幾度となく脳裏に甦る。

このときの「母とサクランボ」を、いつか描いてみようと思う。