母のお取り寄せブーム

母のお取り寄せブーム

先日母が亡くなった。

まだほとんど口外していないので、そのことを知る知人は少ないと思う。

母は最高裁判所や赤坂の界隈にほど近い東京は平河町の生まれ育ちで、
戦争で生家は焼けてしまったものの、こども時代は割と裕福に暮らしていたようで、
「あのルビーやエメラルドが付いている腕時計が焼けなかったら、晴子ちゃんにあげたんだけど〜…」などという話をしてきたことがあった。
「着物屋や宝飾店がご用聞きに来ていたの」という話もあり、
母の人生の栄枯盛衰のなかの「栄」と「盛」の側面が伺われ、
私としてはもらい損ねたルビーとエメラルドのこと、をこれまでの幾度となく妄想し、
”自分の生活とは違うわ〜”と、ただただ、そんなお姫様的な昔話に憧れたのであった。

母のお父さん、つまり私の祖父は東京美術学校出身で画号を虹橋といい、
川合玉堂という日本画の世界ではかなり高名な画家の弟子であった。
(玉堂先生からは実は「松堂」という名前を貰ったらしいが、勝手に「虹橋」を使ってしまったらしい)
仲良しは伊東深水だったとのこと。
でも秘かに横山大観に傾倒していってしまい、自由に派閥を移動できる時代でもないので結局絵の道は捨てて実家に戻って(勘当されて練馬の寺に居候していた)自分の代わりにすでに家業を継いでいた弟と一緒に印刷業を始めるが、以前から傾いていた業績はあまり回復しなかったらしい。
曾祖父はドイツから日本初の印刷機を導入して何色かの褒章を貰ったとのことだから、
おそらくそこそこの事業であったのだろう。
それを二代目にして潰してしまったのか、傾いただけだったのか、
そこまで詳しいことは残念ながら聞いていない。

空襲で平河町も燃えて、火の並木の中を近所の人の車に同乗して避難したという母たちは、
その後、仙台へ疎開。
東京では栄養士になろうと女子栄養大学の前身であった学校で学んでいたが、
疎開により断念して仙台で職を得た。
仙台では営林署で仕事をしていたのだが、
そこに林野庁(今でいう農林水産省)の人が出張でやってきて、
「へ〜、もともと東京だったんだ。仕事できるし本庁に来れば?」の一言で(?)
東京の林野庁で仕事をするようになる。

仕事をしながら夜間のデザインスクールに通っていたところ、
父と知り合い結婚。
後に父はデザイン事務所を立ち上げ、まず長男、しばらくして長女が生まれる。
その長女というのが私である。

父の事務所は長銀が破綻するまでは順調だったが、
資金運用の読み間違いもあり、後年は細々とした生活になった。
そして父が亡くなり、母は5年あまりの期間独居生活をしていた。

母は前向きな性格で、実のところかなりプライドの高いところがあったので、
「あ〜、つまんないわ!」とはいうものの、あまり弱音をいうことはなかった。
栄養士になろうとしていたくらいなので栄養管理、さらに健康管理もしっかりしており、
TVや新聞で知ったネタをメモり、切り抜きし、
この1年間のメモの中には「線状降水帯」という文字があり、
認知症があったにもかかわらず、知的好奇心というものが
人格の中に強固に根付いていたのだということがわかった。

母の体調は昨年の4月以降突然崩れ始めた。
身体の中の時限装置が切り替わったのかもしれない。
初回の入院で3ヵ月くらい、最後の入院も3ヵ月くらいだったが、
1年で5回の入退院を繰り返し、延べ8ヵ月くらいは病床にいたように思う。
この1年というもの、私は実家に病院に足を運び、様々な手続きをし、
あちこちに連絡をし、仕事もしつつ、母という存在を守ることを第一義として生活してきた。
その中で勉強会や2つの展示への参加をしたことは綱渡りと言っても差し支えなかった気がする。
母は、私が「ここだけは何も起こりませんように!」というところだけを避けるように
何度も具合をわるくしたのだった。

最後の入院の前くらい、母がやたらとお取り寄せをしていることが判明した。
すでに頻繁にお取り寄せをするような生活水準ではなくなっているにもかかわらず、
請求書や発注予定の注文葉書がテーブルやカウチの上に何枚も控えていた。
母にとって馴染みある暮しの記憶がもたらした生活パターンが再燃。
プレゼント好きなところが大いにあるので、
これは自分用、これは娘用という発想でウキウキと買い物をしてたのであった。

母のお金の管理は私がしていたので「このひと月にお取り寄せは何回したの?」と訊いてみたところ、
元気に「ゼロで〜す!」との答えが返ってきた。
そこで請求書や記入済み注文書、届いた商品を並べ、全体の状況とお取り寄せ総額のミスマッチの計算式を見せたが「(お金が)足りないなんてあるのかしら…?」と納得いかない様子なのだった。
結局10何件かの通販会社に事情を話し、仮に注文が来ても購入手続きをしないようにお願いすることにした。どこの会社も「あ〜!」という感じで、おそらく今どきはそれほど珍しくもない話なのかと思った。

お取り寄せの品物は健康志向だけあってサプリメントもあったが、ワインとか「木の実とドライフルーツのオリーヴオイル漬け」なんていうのもあり、冷蔵庫には大きいサイズの明太子が入っていたりもする。
先ほど自分の自宅の新聞を片付けていたら、母が取り寄せたと同じ商品の広告が目に入った。
母は、この瓶詰めを4、5ヵ月前に私にくれたが、自分自身は一口も食べていなかった。
未開封の瓶はまだ母の収納庫の中にしまってある。
こちらでいただいた瓶詰めのほうは下に若干残りがあったので、それを撮ってみたのが上の写真。

そんなこんなの大まかな母の足跡は私だけが知っているものもあると思うので、
私がいなくなる時、この記憶も消えてしまう。
だけど、私自身の幼いときの記憶は母が亡くなったことで、ある意味同時に消えてしまったような気がする。
母は誰よりも私の幼い時代を知っている人だ。
母には認知症があったので、亡くなる頃にどれだけ子育ての記憶が残っていたのかは定かではない。
でも、私にとって母の死は自分の幼い時代の記憶の死なのだと思う。
私の知らない私を最も知っている人だから。

すでに父が亡くなり、母も亡くなったことで、誰かの子供である自分とのお別れをしたような心持ちがする。
別の側面からすると、子供である自分が解放された….とも言えるのかもしれない。